“まーたこんなとこにいやがる”
耳障りな声が足元から聞こえた気がして、わたしはレム睡眠の呪縛を解かれた。
同時に飛び込んでくる白い光。
いささか過ぎるそれに目が眩み、反射的に腕で影を作る。
「お前、最近授業サボりすぎだぞ。毎度言い訳する俺の身にもなれってんだ、このバカモノ」
何か聞こえる。
日本語だとは分かるのだが、霞がかった頭ではその意味が上手く理解できない。
だから今のわたしにとって、それは使われていないチャンネルのノイズと同じものでしかないのだった。
「っ……んー、」
すっかり停止しきっていた脳が、意識の覚醒と共にのそのそと緩慢な動きで労働を開始する。
うー、まだちょっと眠いかな。でも起きてしまったもんはしょうがないし、まぁ――とりあえず蹴るか。
「てい」
「痛てぇ!?」
おお、いいリアクションだ。面白いのでもうちょっと蹴ってみよう。
「てい。てい。てい」
「ぃてっ……!? ちょっ…ま……ぐへ!」
視線の先にはお天道様がサンサンと輝いていらっしゃる。なら今はだいたい正午ちょっと過ぎってとこか。
そう気付いた途端に「ぐー」と鳴るお腹。まったく、人間という生物はつくづくよくできていると感心する。
「ぶへ! げふ! ぶふっ!」
屋上入り口のすぐ右横に設置されたはしごを上ると、そこが今わたしの寝転がっている、この学校で一番空に近い場所。
高い場所が好きなのは、見上げればそこには空しかなくて、なんだかそれを独り占めしたような気持ちになれるからだ。
元来、人間というのは独占欲の強い生き物だが、それを差し引いてもわたしは独占欲の強い方らしい。
それが災いする事は多々あるけど、自分の性質は嫌いじゃない。“わたし”はそれでこその“わたし”だから。
「おぶ! へばっ! ぐはぁっ!」
上体を起き上げる。
途端、長く陽の下で寝ていたせいか、視界がぐるぐると回りだす。
軽い眩暈。
潮の匂いを孕む爽やかな風がそよとせせらぎ、それを簡単に霧散させた。
―――もう、夏かぁ
耳を澄ませば、辺りは夏の音色で満ちている。
遠方に響くさざ波の足音。
気持ちよさげに飛び交うカモメたちの会話。
我こそ我こそという自己主張めいた虫たちの鳴声。
余りにも醜い、聞くに堪えない断末魔。
「あらわっ! ひでぶっ! あべしっ!」
「……うるさい」
ありったけの力を込めた会心の前蹴りが足元の顔面にめり込む。
それを喰らった男は、スローモーションのようにゆっくりとはしごの下に落ちていった。
◇ ◇ ◇
「――だからこうして謝ってるじゃない。器の小さい男だなぁ」
言いながらマルボロに火をつけ、肺にニコチンを送り込む。
ふぅ。
相変わらない不味い煙草だ。
「あんだけ理不尽にボコボコにされたら、どこぞの聖人君子もマジギレだっつの!」
男は言いながらティッシュを小さくちぎり、丸めて鼻に詰め込む。
うわぁ。
相変わらない不細工な顔だ。
「仕方ないでしょーが。寝起き一発目にあんたの顔なんか見せられたら、そりゃ誰だって蹴りの一発も入れたくなるってもんよ、うん」
「どういう意味だそらあぁ!」
ぎゃーぎゃーと目の前で騒いでいるこいつは、クラスメイトの小島小鳥 。
小学校に入学する少し前に知り合ってから十年以上の付き合いになるこいつとは、いい感じにいうと『幼馴染』、実際には『腐れ縁』という関係で結ばれている。
もちろん、さっきわたしに蹴られていたのがこの男であることは言うまでもない。
「冗談よ、冗談。シャレの通じない男はモテないわよ?」
「パンツ見せながら男の顔面に蹴り入れる女はもっとモテね……痛だだだだだだだ!? ちぎれる! ほっぺたちぎれちゃうって!」
「軽口な男もモ・テ・な・い・わ・よ?」
ほっぺたから右手を離してやり、同時に口から白煙を吐き出す。
……やっぱり煙草は不味かった。
「ったく……タバコは体によくねーぞ」
「知ってるわよ、そんなの」
「美味いのか?」
「最高に不味いわ」
「なら何で吸うんだよ?」
「……格好いいから」
辞めようと思えばすぐにだって辞められるそれを続ける理由は、きっとわたしが未練がましいからだと思う。
人差し指と中指の付け根辺りで煙草をはさみ、口全体を手の平で覆うようにしてそれを吸う。
バイト先の喫茶店の常連であるその人が気になったのは、その何でもない仕草がとても格好よく映ったからだった。
手の形、くわえる動作、吐き出される流煙―――
仕事も忘れてその動作に魅入ってしまい、店長に注意を受けてしまった。
バイトが終わった後、コンビニに行って煙草とライターを買った。
種類がありすぎてよくわからなかったので、取りあえずあの常連客と同じものを選ぶ。
『マルボロ』というらしい。意外とかわいらしい名前だ。
家に帰り、早速袋から煙草とライターを取り出す。
悪戦苦闘の末、なんとかライターから火を出して煙草につけると、それを人差し指と中指ではさむ。後はくわえて吸うだけだ。
緊張の一瞬。
一回深呼吸をして気を落ち着かせる。
ハァ…………いざ!
くわえる。
そして吸う。
吸う。
吸う。
吸―――
「げほっ! ごほっごほげほっ! ……ぅおえぇ〜」
初めて吸った煙草は、格好よさも味もへったくれもありゃしなかった。
それからというもの、わたしはその人を観察するようになった。
火のつけ方から足の組み方に至るまで、とにかくその人の一挙一動も見逃すまいと暇さえあれば目で追った。
そんなことをしている内、その人の接客はわたしがすることが店内の暗黙のルールになっていた。
接客の度に他のバイトの娘がニヤニヤしているのは少し気にかかったが、近くで観察できる方がわたしとしてはありがたい。特に追及もしなかった。
バイトが終わると、その格好と動作を鏡の前で真似てみるのが日課になった。
足を組んで椅子に座る。
箱をトントンと叩いて煙草を取り出す。
口にくわえる。
火をつける。
吸う。
「げはっ! えっほえほ……」
煙草の美味しさはまだわからなかった。
そんな研究の成果もあって、ようやくわたしの煙草の吸いようが様になってきたある日曜日の昼下がり。
いつもは平日にスーツで来店するその人が、見慣れない私服姿でやってきた。
見知らない女性と手を繋いで。
わたしはいつも通りの態度で、その人に近づいて挨拶をする。
「いらっしゃいませ。お二人様でしょうか?」
「あ、はい」
「かしこまりました。それではお席にご案内いたします」
「あの」
「? はい?」
「今日は禁煙席でお願いします」
頭をトンカチでガツンと叩かれたみたいだった。
ひどくクラクラとして、胸の奥がじんと熱くなって、なんだかごちゃごちゃになって……その後は断片的な記憶しか残っていない。
用もないのに店長に早退許可をもらって、
急いでもいないのに走って家に帰って、
自分の部屋の鏡の前で椅子に座って、
煙草を取り出して、
口にくわえて、
火をつけて、
吸った。
「不味い……」
鏡の中のわたしは泣いていた。
「格好いいから、ねぇ……」
「そ」
もっとも、格好いいのはわたしじゃなくてあの人だけど。
「金、結構かかんじゃねーの?」
「んー……一ヶ月で五千円くらい?」
「うわ、マジで? 理解できねー」
「あんたに理解される必要ないしね」
かわいくねーヤツ、とか言いながら、小鳥はポケットからごそごそと何かを取り出し、それをわたしに差し出した。
「……なによこれ?」
「見てわからんのか、アホ。どう見たってアメだろーがよ」
そんなもの見ればわかる。
これがメザシに見えたのなら、そいつは眼か脳みそがおかしいヤツだ。
わたしが言いたいのは、どうしてこれをわたしに差し出してるのか、とそういうこと。
「今日からタバコの代わりにこれにしろ」
「――は?」
あまりの突拍子のなさに、思わず間抜けな声を上げてしまった。
「タバコは高い。これなら一ヶ月で二千円もかからんだろ」
「……あのねぇ。なんでわたしが、あんたにそんなこと決められなきゃいけな――むごっ!?」
わたしがまだ話し終えない内に、強引にアメを口の中にねじ込まれる。
抵抗する暇もありゃしない。
それまで煙草の煙で麻痺していた口内に、瞬く間にコーラの味が広がった。
「いっ……いきなり何すんのよ、このバカ小鳥!」
「美味いだろ、このアメ」
「え?」
ふと見ると、いつの間にか小鳥もアメを口に含んでいた。
よほど好きなのだろう。
その顔は随分と嬉しそうで、なんだか肩透かしをくらった気分になった。
「嫌いなんか? コーラ味」
舌でアメを転がす。
転がせば転がした分だけ甘い味が溢れてきて、いつの間にか煙草の味は綺麗さっぱり消え去っていた。
「…………嫌いじゃ、ない」
ていうか美味い。
正直コーラっていうには程遠い味だけど、少なくとも煙草なんかよりは全然。
小鳥と二人、しばらく無言でアメを転がす。
ころころ。ころころ。
甘い。
ころころ。ころころ。
美味い。
ころころ。ころころ。ころころ。ころころ。
……あれ、なんだか急にバカバカしくなってきたぞ。
どうしてわたしは、貴重なバイト代を割いてまであんな不味い高級品を買ってるんだろう。ちょっと冷静に考える。
ポケットに入れたときの、あの言いようのないごわごわとした不快感。
どれだけ気をつけても、服と名のつくものには問答無用で擦り付いてくる微悪臭。
よく考えてみれば、パスタの名前みたいで特に可愛げもないネーミングセンス。
更によくよく考えてみれば、煙草本体よりも実はそれを吸う女自体が可愛くないし。
最悪の場合、これが風紀委員にでも見つかったらわたしは問答無用で停学コース確定だ。
――――あれ?
「……全然ダメじゃん、煙草」
「だからさっきからそう言ってんだろ」
「そうだったっけ」
「そうだったって」
小鳥の声に適当な相槌を打ちつつ、ポケットから煙草とライターを取り出す。
実際に手に取ってみるとなんだか更に駄目な気がして、同時になぜだか胸がすっと楽になった。
「…………」
少しばかりの間それをじっと見つめてから、ぐしゃと力いっぱい握りしめる。
たったそれだけで、清々しいほど簡単に決心は着いた。
緊張は、もちろん無い。
目をつむって静かに深呼吸。
ゆっくりと両目を見開く。
腕を大きく振りかぶる。
身体を真横に捻って、
右足を踏み込み、
屋上から
「ていっ」
――――投げ捨てた。
「……いいのか?」
「あんたが辞めろっつったんでしょーが」
「や、まさかそんな素直に辞めるとは」
「うっさい」
小さく溶けたアメを噛み砕く。
ちょっとべたべたするけど、あまり気にはならなかった。
「おい誰だ、屋上でタバコ吸ってるヤツは!」
「やばっ……」
階下から聞こえる教師の声。
わたしと小鳥は全力で逃げ出した。
いつもより速く走れるのは、きっと煙草とライターの分だけ軽くなったからだ。
口の中にはまだコーラの味が残っている。
久しぶりに充満する甘味に、わたしの舌と肺は喜んでいる気がした。